CROSS TALK01後編
これまでJASTで重ねることができた
得がたい経験を活かして
社会に恩返ししていきたい
堀 正憲 × 大槻 歩実
堀 正憲
1973年3月、平林社長とともにJAST創業に関わる。1982年、機械をコントロールするソフトを開発したいと考え技術システム課を立ち上げ。それが現在のSI事業部につながる。その後、運用管理部門や業務管理部門の立ち上げにも携わり、第一号となる執行役員大阪本部長に就任。2014年8月、64歳でJAST卒業。
大槻 歩実
2015年、キャリア採用で現HI事業部へ配属。現在は営業職として新規顧客の獲得を主とした営業活動を行う。2022年には、上記営業活動を成果としたJAST全社成果発表会で最優秀賞を受賞。またその傍ら、JAST50周年実行委員としても活動し、幅広く活躍中。
自称「七人の侍」が
コンピュータ時代の幕開けに臨む
大槻 歩実(以下大槻) 平林社長含めて7人のメンバーで創業されたとのことでしたが、創業メンバーをひとことで表すと何でしょうか。
堀 正憲(以下堀) その当時から自分たちを「七人の侍」と呼んでいました。そういう映画もありましたので。映画で描かれている人物像とは少し違いますが、統括役や切り込み隊長、裏方までいて、一人ひとり役割があったと思います。
大槻 いいキャラクターが揃っていたのですね。
堀 7人みんな独特でしたね。誰一人似ていなくて、それぞれの分野で自分が何をしないといけないかを理解して行動していました。 とにかく「目の前のことを達成していかなくては」という危機感が強かったと思います。
大槻 話は変わりますが、昔は女性の制服があったそうですね。それを廃止した理由は何だったのですか。
堀 私たちの時代は、仕事の4次請け、5次請けが当たり前で、請負元の会社名で働いているため、JASTの制服を着られる状況ではありませんでした。また、自分たちが請負元になったとしても、協力会社にうちの制服を着てもらうというのは協力会社の社名を隠すことになり、JAST名で仕事をしてもらうのは辛いのではとの想いがありました。そもそも当時コンピュータ関連は新興企業でしたから、社長が、制服という過去の慣習に囚われずにいこうと決めたんです。フリーな格好で、フリーな発想で、過去の縛りから解放され、これからの時代を担っていくとの想いで制服を廃止しました。
大槻 そうなんですか、時代を先取りしていたんですね。
「自前でやる」の考え方で、
管理職研修を担当することに
大槻 堀さんは2泊3日の管理職研修を担当されていたそうですが、社長から外部の専門会社以上の成果を求められたというのは本当でしょうか。
堀 はい。そもそもは管理職などの主要メンバーで管理職研修を受けたのですが、私だけなぜか除外されたんです。理由を聞くと、社長は「お前は俺の横におれ」と。つまりね、研修を受けるのではなく、研修を覚えろというわけです。3日間ずっとカセットテープに録音して、テキストが真っ黒になるくらいメモしました。外部委託すると費用がかかることもありますが、なにより、外部の会社だとどうしても一般的な話が多い。私が経験してきたソフト開発の話を例題にすると「みんながピンとくるから」と言っていました。何でも「自前でやれ、その道のプロを超えれば、自ずと自分自身が成長する」が社長のスタンスですよね。
大槻 社長の話が出てきましたが、ずばり社長の弱点というのは何でしょうか。社員から質問が来ています(笑)。
堀 社長にも弱点はあるんですが、それを全部強みに変えるんですよね、あの人は。その辺りはすごいなと思います。みんなは「弱点は奥さんです」という回答が欲しいのでしょうけれど…。そういえば、こんなエピソードがあります。結婚前のことですが、事故か何かのせいで社長が奥さんとの待ち合わせに何時間も遅れたそうです。1、2時間どころじゃなく、何時間も。でも、奥さんは待っていたんだそうです。それで社長は「あ、俺は彼女と一緒になるんや」と決めたといいます。
もう一つは創業後の話。当時、紙テープにデータをパンチし、それを元にコンピュータに入力していました。奥さんは「少しでも手助けしたい」と、そのパンチ業務を近所の人たちに頼んで、完成した袋いっぱいの紙テープを会社まで運んでいたんです。だから、私たちは7人の侍プラス1人と表現していました。正にJASTの「内助の功」です。ですから社長は奥さんに感謝しかありません。それが経営理念にも生きています。「感謝報恩の平常心を持つこと」というのは、お客様や株主、仲間、家族に感謝しようというものです。
大槻 素敵です。社長は愛妻家ですもんね。ところで、堀さんの弱点は何ですか。
堀 私の弱点は、切り込み隊長のようにバーッと出て行き、一心不乱で行動を起こし、最終段階でスッと冷静になって臆病になること。その繰り返しですね。
大槻 そうは見えませんが、裏にはそんな一面もあるのですね。
1984年頃のオフィス風景
1995 年1月17日
兵庫県南部地震発生時のオフィス風景
決まっていた証券会社への就職を蹴って、
起業メンバーに
大槻 すでに結構ぶっちゃけていただいていますが、今だから話せることはありますか。
堀 私の学生の頃は、コンピュータは出たばかり。まだほとんど知られていない時代で、私は証券会社への就職を決めていました。そこへ社長から起業の話を受けたんです。思い切って、入社の前日に証券会社へ断りを入れました。もう、どれだけ親に叱られたことか、正に勘当物でした(笑)。
大槻 すごい決断ですね。
堀 当時、証券会社や銀行は理想の就職先でしたし、私の経歴からすると高嶺の花でした。また、その業界も非常に勢いがありました。でもね、いま、就職予定だった証券会社の名前は残っていないんですよ。JASTはある。ほかにも、公務員試験をやめて起業に加わったメンバーなどもいましたね。
大槻 そんな決断をさせる社長の魅力とは何なのでしょう。
堀 なかなか信じがたいかもしれませんが…。社長は私が通っていた専門学校の講師で、はじめて見たときに、後光がさしていると思ったんです。「あ、この人は違う」と。たくさんの先生の中でも、そんな風に思ったのは社長だけでした。何か感じるものがあったのでしょうね。
大槻 堀さんが選んだJASTは上場まで果たしました。創業時から見てどう感じますか。
堀 JASTが上場するとも、こんなに大きくなるとも想像していませんでしたが、卒業してから思うのは、
生活に余裕があって、心情的にも経済的にも老後を楽しめているということです。今までの精算みたいなものかな、と思っています。皆さんも今のうちに苦労や経験を積み重ねて、安定したときにはじめてそれを味わって、自分の人生はどうだったのか考えてみるといいかと思います。私は、今の人生は、過去の実績が積み重なった結果だと考えています。
大槻 つい目先の結果だけ見がちなんですが…。
堀 それは過去のアウトプットだから仕方がありません。でも、もう一段ステップアップしようと思ったら、そこから積み重ねていけばいいと思います。
引退後は、技術を活かして
社会貢献し続ける道もある
大槻 今後のプライベートの目標を教えてもらえますか。
堀 これまでいい経験をさせていただいたので、社会に恩返しというか、社会に活かせるようなことをしたいと常に考えています。身近な例で言えば、住んでいるマンションで自治会の管理をお手伝いしました。これまで手作業でやっていた作業をシステム化して提供したんです。
大槻 無償ですか?
堀 もちろん、無償で。引退後、別の仕事に就くのもひとつの方法だと思います。ですが、これまで社会から供与された技術を社会にお返しするというのもひとつの方法。たとえばどこかで誰かが困っていれば、システム化してあげるとか…。そういう風にすることで、少しでも恩返しできるのではと思っています。
大槻 貴重なお話をありがとうございました。